ブックタイトル週刊東洋経済サンプル日本史

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概要

週刊東洋経済サンプル日本史

特集/学び直し日本史53週刊東洋経済2016.6.18の事業を精力的に展開します。それから8年の後、秀吉が病死すると、その後継を争う関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。そして直ちに村々の名称とコメの収穫高を明記した郷ごう帳ちょう、国くに絵え図ずを全国で作成させ、さらに大名の石高に合った手てつだい伝普ぶ請しんとして、江戸城、伏見城(京都府)、駿府城(静岡県)などの築城・改修事業への動員を命令します。1615年、大坂の陣で豊臣家を滅亡させ、名実共に徳川家の天下となると、伏見城に諸大名を集め、2代将軍秀忠の名で武家諸法度を発布し、大名への統制強化を図ると同時に大名に幕府への忠誠を求めます。幕府が大名に求めた忠誠の証しとして代表的なものが、参勤交代の制です。実は関ヶ原の戦い前後にも、徳川側についた諸大名が、異心がない証しとして母や妻子を江戸に送った事例があり、これが参勤交代制の始まりといわれています。2代将軍秀忠の時代にも、ある程度定期的な江戸への参勤が課されていましたが、制度としての参勤交代が確立したのは3代将軍家光の時代。1635年の寛永の武家諸法度で、毎年4月には江戸参府と規定され、約1年間は江戸に滞留することが求められました。幕府が参勤交代を各大名に課した意図は、いくつか挙げられます。第1に、大名が毎年江戸に参府することで、徳川将軍家への忠誠を示す儀礼を制度化する点です。第2には、大名は参勤交代するために毎回多数の家臣団を引き連れるため、これが軍役を代替するものという意味を持っていた点です。そして第3に、参勤交代にかかる諸費用(往復経費、将軍家への贈答経費など)が大名にたいへんな負担になる点です。その出費は藩財政を逼迫させました。当初、参勤交代は外様大名だけを対象としたものでした。しかし、寛永年間の飢饉を契機に、譜代大名もこの制度に組み込まれていきます。最終的には、水戸徳川家は江戸に定じょう府ふ(年間を通して江戸に詰める)、対馬藩宗氏は3年に1回、関東の諸大名家は半年ごとの参勤となりました。明治維新を主導した長州藩と薩摩藩。なぜそんな力があった?5853年の米国東インド艦隊司令長官ペリーの来航と開国要求は、太平の眠りを覚ます大事件でした。翌年には日米和親条約、4年後には日米修好通商条約が締結され、日本は世界貿易の大きな波にのまれていくことになります。これら一連の外圧とは別に、幕府は内治においても、反幕・排外の尊王攘夷思想の拡大に頭を悩ますことになります。強権強引政策をとった大老・井伊直弼が1860年に桜田門外で殺されると、老中の筆頭となった安藤信正は、公武合体政策を推進するための皇妹和宮の降嫁に成功。しかし、各地では尊王攘夷運動が活発化し、外国人襲撃事件は日常的に頻発しました。この頃、藩政改革に成功した西国雄藩の発言力が、徐々に幕政にも影響力を持つようになってきます。毛利氏の長州藩(山口県)は、村田清風を登用して巨額の負債を長期返済で解決し、専売制も強化して藩財政の回復に成功しました。島津氏の薩摩藩(鹿児島県)でも、調ず所しょ広郷を家老に抜擢して巨額の負債を250年返済で解決。黒砂糖の専売、琉球との密貿易で利益拡充を図りました。ほかにも、宇和島藩(愛媛県)、参勤交代は、藩の財政を逼迫させた3代家光の時代に完成強引に負債を整理村本百姓将軍幕府領700万石天領400万石(郡代・代官)旗本知行地300万石朝廷・公家領、10万石寺社領40万石大名領2250万石大名蔵入地(代官)家臣知行地(出所)『いっきに~古代・中世・近世』P297幕藩体制PPA/アフロ1