ブックタイトル週刊東洋経済サンプル日本史

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概要

週刊東洋経済サンプル日本史

特集/学び直し日本史51週刊東洋経済2016.6.18本に公的に仏教が伝わったのは538年。朝鮮半島にあった百くだら済の聖せい明めい王おうから、正式に仏像と経典が献上されました。この新宗教については、政権の中枢を担う大おお臣おみの蘇我氏が積極的に信仰を推進しようとする一方で、大おお連むらじの物もの部のべ氏が旧来の在地の古代信仰の固持を唱えて崇すう仏ぶつ論争を展開し、最終的には蘇我馬子が厩うまや戸ど王おう(聖徳太子)と組んで物部守もり屋やを滅ぼします。これによって、飛鳥地方を中心に多くの仏教寺院が建立されるようになりました。このときの代表的な寺院が、大和盆地の斑いか鳩るがの地に推古天皇や厩戸王らが建立した法隆寺です。用よう明めい天皇の病気平癒を祈願して、607年に完成したと伝えられます。672年、壬申の乱に勝利して成立した天武・持統朝になると、藤原京を整備し、その京域内に国立寺院の大官大寺が建立されました。この7世紀後半という時代は、鳥取県の上かみ淀よど廃はい寺じ遺跡に見られるように、地方にもかなり仏教文化が浸透していたことがわかっています。奈良時代に入ると、天皇と皇族を中心に積極的な仏教興隆政策が推進されました。その主眼は、鎮護国家を目的とする国家仏教の興隆にあります。そのために、鎮護国家を説く「金こん光こう明みょう最さい勝しょう王おう経きょう」「仁王経」「法華経」が特に尊重され、これらの経典を学ぶために、南都六宗(三論、成じょう実じつ、法ほっ相そう、倶ぐ舎しゃ、華け厳ごん、律の各宗)の教えを兼ねて研究し、学ぶことが提唱されました。そして、南都七大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺または唐招提寺)の建立・整備が推進されました。これら奈良仏教の興隆が頂点に達したのが、聖武天皇による741年の「国分寺、国分尼寺建立詔みことのり」と、743年の「東大寺大仏造立詔」です。各国には、金光明四天王護国之寺=国分寺と、法華滅罪之寺=国分尼寺を建立させ、東大寺をその総本山としました。そして、巨大な盧る舎しゃ那な仏ぶつ(大仏)の造立を命じ、ほぼ??年の歳月を費やして、752年に開眼供養が執り行われました。しかし、このような大掛かりな仏寺の建立・造営や大仏造立事業は、当時の律令国家体制において租税の担い手であった班田農民に過重な負担を課すことになります。最終的には、これが班田制の崩壊と荘園制の萌芽を生み出す結果につながっていくのです。となった弥生時代終末期(2世紀中葉~後半)の円えん形けい周しゅう溝こう墓ぼが発掘され、「前方後円墳の祖型発見」と大きく報道されました。それまで弥生時代の墓制は、1964年に東京都の宇津木向原遺跡で発見された方ほう形けい周しゅう溝こう墓ぼが全国各地で見つかっていました。ところが??年代に全国で発掘調査が急増した頃、岡山県の楯たて築つき遺跡で、従来は見られなかった明瞭な墳丘(土盛り)を伴う弥生時代の墳墓が発見され、後に弥生墳丘墓と命名されます。方形周溝墓は、弥生時代前期から古墳時代前期まで継続して全国で築造されていますが、弥生墳丘墓は弥生時代後期にいくつかの地域だけで見られ、その形態も前方後円形、前方後方形、帆立貝形などさまざまです。そこで考えられたのが、①瀬田遺跡で発見された「突出部を持つ円形周溝墓」が、②やがて「前方後円形墳丘墓」となり、③ついで纒まき向むく石塚古墳などのような全長100㍍内外の「纒向日鎮護国家を目指した大仏の造立がもたらした予想外の影響とは?2型前方後円墳」に発展して、④さらにこれが定型化した前方後円形の墳丘を持つ最古の古墳「箸はし墓はか古墳」につながっていった、という仮説です。現在では、前方後円墳はこのようにしだいに墳形が発達して成立したと考えられています。箸墓古墳を祖とする前方後円墳は、古墳時代の5世紀までに大仙陵古墳のような大型墳墓に発展し、同時に関東や九州など全国に広がっていきます。天皇家が積極的に推進東大寺の大仏。台座からの高さは約18㍍。開眼供養にはインドや中国からの僧も参加したアフロ